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友の会専用ページ 2020年6月

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ふなばし三番瀬環境学習館 友の会専用ページ 6月号

三番瀬の海 漁場争いの原因は?

友の会の皆さんこんにちは。新型コロナウィルスの問題で困難な日々を過ごしていることと思います。
こんな時こそ、みんなで助け合って困難な状況を乗り越えていきたいですね。


今日は、三番瀬の海のお話です。
今から約430年前(江戸時代の初め)。ふなばし三番瀬環境学習館の目の前にある三番瀬の海は魚のたくさん獲れる良い漁場として知られていました。

その頃、三番瀬周辺の海は、将軍徳川家康から船橋漁師町の専用漁場として認められ「御菜浦(おさいのうら)」と呼ばれました。
将軍家の御台所(みだいどころ)には、当時の三番瀬周辺で獲れる高級魚が献上されました。当時の記録によると献上の魚として「石かれい、こち、いな」の名前がみられます。
そんな三番瀬の海をめぐって漁場争いが起こりました。
他の漁村から侵入が絶えなくなったのです。
さて、三番瀬の海の漁場争いの原因はなんだったのでしょう?

学習館の展示の写真
本館1階展示「三番瀬のうつりかわり」
 

三番瀬の海をめぐって漁場争いの原因、それは、「地震」です。

江戸時代中期、元禄16年(1703)に、東京湾で大地震が起きました。
南関東・伊豆にも大被害を及ぼした大地震、「元禄地震」です。
船橋の海は海底の地形が変わってしまい、以後何年も不漁になりました。
この地震で、船橋の漁師は三番瀬の魚の献上をすることができなくなりました。

将軍家に魚を献上するという権威がなくなった三番瀬には、周辺の漁村からの侵入が後を絶たない状態となり、漁場争いは明治時代まで続いたということです。 漁場争いの中には海の上で乱闘になるものもありました。

毎年2月に不動院(船橋市本町)で行われる「大仏追悼供養」は、このように命がけで漁場を守ろうとした漁師と1746年に起きた津波で亡くなった人々を供養するための行事です。

船橋市「大仏追善供養」の写真
「大仏追善供養」
ご飯を口元に付ける参加者

現在の三番瀬は、貝や海苔がとれる良い漁場です。三番瀬の海苔、アサリ、ホンビノスガイは全国でも有名です。また、スズキとコノシロの船橋の水揚げは全国でもトップクラスです。
地震や自然災害でたいへんな苦労を強いられてきた船橋の漁師たちですが、困難を乗り越え、今でも船橋の漁業を守り続けています。

アサリとホンビノスガイの貝がら
アサリ    ホンビノスガイ

【参考文献】
・船橋市社会科副読本編集委員会 (2020) わたしたちの船橋3年. 船橋市教育委員会.
・船橋市漁業協同組合 (2020) 船橋の漁業. 船橋市経済部農水産課.
・ふさのふみお (2001) クローズアップ郷土史. 船橋よみうり新聞社.
・滝口昭二 (2014) 船橋の地名を歩く. 崙書房出版.

三番瀬ナウ
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